なぜ学校に行かなければならないのか?

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子供の頃おおきな疑問だったのは「なぜ学校に行かなければならないのか」だった

私にとって学校は楽しい場所ではなかったし、当時としては勉強もそれほど好きなものではなかった。
だからこそ、親や学校の先生がしきりに学校に行きなさいと言うことの理由を知りたがった。

もちろん、そんなモノを教えてくれる人は居なかったわけで…。

 

なので、私はこのブログでその答えやヒントになるものを出せればいいと思う。

 

 

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勉強するために学校に行くのか?

学校というのは誰も彼もが勉強をする場所だと思っている。
それはもちろんその通りなのだが、果たして本当にそうなのだろうか。

 

そもそも学校という場所が勉強を「する」場所と言うのは明らかに違う。

生徒にとっては「科目ごとの知識を教えてもらう」場所だ。
そして教師にとっては生徒に「科目ごとの知識を教える職場」なのだ。

 

小学5年生以降でないと難しい話なのだが、「する」と言うのは自主的に行う動詞なわけで
「する」だけなら別段学校に行かなくてもいいわけだ。自宅学習していればいい。

 

だから学校というのは「勉強する場所」ではないわけだ。
それは生徒にとっても教師にとっても。

 

 

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社会を学習する場所ではある

学校というのは、社会の縮図だと言われる。
上級生は先輩で下級生は後輩になる。

上級生は下級生よりも知識や経験がある分、言うことを聞いておいたほうが得だが
必ずしもそれに反抗されないということではない。

しかし、現実には年齢が上の人間には逆らうべきではないという考え方があるのだが
これはこの時点から年功序列の間違った感覚を植え付けられているからだ。

 

教師というのは、上司と考えることも出来る。
クラス単位に置き換えてみれば、部長と言ってもいいだろう。

係長や主任なんかの役職については、学級委員や委員会などの考え方でいいだろう。

 

たしかに小さな縮図である。
だからこそ、この縮図を理解させた上での学校生活というのは大いに意義のあるものだろう。
だが誰もこれを教えてくれない。

さらに、この学校社会は小さな縮図だからこそ問題が見えてきやすい。

 

 

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いじめ問題をどう解消するのか?

私はいじめというものはなくならないだろうと考えている。
人間の本能的に、弱者をいじめることは優越感や快楽を与えるからである。

監獄実験というものがあるのだが、被験者はそれぞれ囚人と看守という役割を与えられ
囚人役は番号で呼ばれ、看守の命令に従わなければならなかった。

始めこそ笑いながら始められた実験だったが、1週間もすると囚人側からは笑顔が消えた。
看守達の態度は尊大になり、気に入らない者には懲罰を与えたりと言った行動が目立った。
2週間目には囚人側の暴動がおこり、1ヶ月を予定していた実験は2週間で中止となった。

 

この実験からも分かるように、人は役割を与えられるとそれに順応してしまうものである。
さらに行動はエスカレートしていくことは実験結果を見なくても分かることだろう。

 

立場の強い人間は立場の弱い人間を虐めやすく、ターゲットとされたものはそれに順応しやすい。
しかし行動がエスカレートするに連れてストレスの許容量は限界を迎え暴力という形で帰ってくる。

 

この問題を解消するためには、第三管理委員会の設置やどちらにもよらない立場を建てなければならない。
いたるところにカメラの死角を作らないように監視カメラを設置するのも有効的な手段だ。

しかしそんなことは難しいとすれば、どうするか?
初めから暴力によって立ち向かうしか術は残されていない。と私は思う。

 

私がいじめから脱却した手段は、教師や誰かが「やめろ」と言ったからではない。
自分で考えうる手段として「喧嘩」や「暴力」をもって戦ったからこそだ。

いじめ問題に「対話」は意味をもたらさない。
注意されれば見えないところでやればいい。
報告するのであれば報告者を潰せばいい。

取り残されたものの出来ることは、自身で立ち向かう必要があるのだ。

 

 

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嘘まで使って学校に連れていきたいのか?

不登校だった私が不登校の子に言えることが2つある。
その1つというのが教師は信用ならないということだ。

ある時、私が提示された条件は「学校へ行くこと」「教室の勉強には参加しないこと」だった。
承諾した私が行ってみると、担任教師が私の腕を無理やり引っ張り、教室へ連れて行った。

手酷い裏切り行為にあったわけだ。

 

だから私は教師という人間は最大の偽善者だと考えている。

「人の話は聞かない」「自分の考えの押しつけ」「嘘つき」
そんな人間たちが子どもの教育についてあれこれと言い合っているのだ。

まったくもって滑稽だ。

 

もしも教師の方がこれを読んで「そんなことはありません」と言っても
私は絶対に信用しないし、考えを覆すつもりもない。

私は実際に教師の裏切りを体験し、責任を持たない言動を見てきているのだ。

 

もちろん私の素行もあるが、この世で一番信頼できないのは教師という職業だ。

 

私の知り合いにも教師を目指している人がいる。
私の弟も教師になろうとしている。

もちろんその人達を信用しないわけではないが、教師の言葉として受け取ったのであれば絶対に信用しない。

 

不登校の子たちが、もしこれを読んでいるのであれば、教師は嘘をつく生き物だと思って欲しい。
その信用は裏切られることの方が大きいし、奴らは責任なんてものを取ろうとしない。

教師の人がこれを読んでいるのであれば、「ありがとう。教師のお陰でこんなにひねくれることが出来ました」と言ってやるから
罪悪感に苛まれて欲しい。

 

 

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誰が学校に行かせる責任を負うのか

国民には権利と義務がある。
権利とはあってしかるべきものだ。

それに伴って義務があり「納税」「労働」「教育」が挙げられる。

教育というのは義務教育のことであるが、みんな勘違いをしている。

 

まず児童に与えられているのは教育を受ける権利である。
この権利は、どんな子どもでも望めば教育の機会を授受できるものだ。

そして教育の義務が発生するのは親の方である。
日本は「就学義務」という効率の悪い方法を採用しているため、親は子どもを通学させなくてはならない

 

ただし、親が頑張ってこの義務を果たそうとしても、子どもが権利の放棄をしている場合はどうしようもない。
またやむを得ない事情で通学が困難な者に関しては、義務教育の猶予及び免除が出来るとある。

 

まずもって現在の日本において、就学義務は実に無意味であると言っていいだろう。
後述するが学校という場所が安全に教育を受けられる場所ではなくなっているからだ。

私はそんな危険な場所に送り出す親は、自殺幇助や殺人幇助をしているとすら思っている。

私は「教育を受ける権利」が圧倒的に軽視されていると考える。
権利というのは放棄することも出来るし、別の手段として利用できる場面もある。

それが就学義務では一切排除されているからだ。

 

この大きな矛盾に国民は気づいて欲しい。

 

 

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学校は安全な場所ではない

前項でもチラと言ったが、学校というのはもはや危険地帯である。
昨今騒がれているいじめ問題は、被害者の自殺で帰結することが多い。

命は何よりも大切だと言う場所で、命がいくつも失われているのだ。

そんな場所に自らの宝を置くバカは居ない。

 

また児童が登下校中に事件に巻き込まれることは少なくない。
通学路でさえ、事故や事件で命を失う可能性があるのだ。

 

命を失う可能性もあるけれど命令だから行きなさい。
これって先の日本帝国が敢行し、非難された「特攻」と何が違うんだ?

しかも、権利としては放棄することも出来るのに、それを認めようともしない。

 

学校教育者には、学校という場所が安全である保証をして欲しい。
学校という場所の見える化をしなければ、就学義務なんてものは履行できない。

 

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まとめ

私は学校に行く必要性というものを感じていない。
それは生命の危険があるからだ。

教師は嘘をつく。
いじめはなくならない。
登下校中に事件に巻き込まれるかもしれない。

 

そんな状況下で、どういう顔をして子どもを送り出せばいいのだろうか?

 

勉強とは「する」ものなのだ。
するというのは受動的な言葉ではなく、主動的な言葉である。
だからこそ、させてはいけないのだ。

子どもの興味を引き出し、それによって個々に特化した勉強方法を提示してやることこそ
親や教育者の義務ではないだろうか。

もしも命の危険をさせることが教育の義務だと言うのであれば、子どもの安全を守る義務はどこへ行ってしまうのだろうか?
もしも学校以外の場所で教育を受けることを拒否されたのであれば、教育を受ける権利はどこへ行ってしまったのだろうか?

 

矛盾だらけだ。
こんなこと、不登校を経験し大学にすら行っていない私でも分かるのに
なぜ私より教育を多く受けている教師がわからないのだろうか?

 

日本は教育の義務という言葉を使うのであれば、就学義務をすぐさま撤廃するべきだ。
もしも就学義務という言葉を使い続けるのであれば、憲法を改正し法整備もその通りに敷くべきだ。

 

学校なんてものは、教師の職場に過ぎない。
学びなんてものはその辺に転がっている。

難しい言葉で子どもを縛り付けるな。
本当になし得たいのは、学校へ行かせることか勉強しても売らうことなのか熟慮して欲しい。

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