日本の学校はもはや学舎ではない。

日常, 意見, 社会

学校関連の記事はそれ相応に書いてきたのだけれど、改めて学校とは何を学ぶ場所なのかを考えてみた。

と言うのも、ツイッターで日本の学校に対する意見が書いてあって、改めて考えるとどうなのかと思ったからだ。

結論として、私は学校というシステム自体もはや意味を持たないのではないかと考えている。

 

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学校で学んで役に立った事

 

学校と聞いて一番に思い浮かぶのは、小学校や中学校。主に義務教育と言われる部分のこと。

しかしながら、私は小学校や中学校でいい思い出なんかないし、まして小学校1年生の時に何をやったかなんて思い出せない。

せいぜい頑張って6年生の時にあんな事やったなぁレベルである。

じゃあ、その小学校や中学校で役に立つ知識があったかと言われると、漢字と算数くらいしか思い当たらない。

今は英語も教えているところがあるらしいが、翻訳機の発達で、英語を使う機会は減るかもしれないと言われている現状遅すぎる。

生きていく上で必要な知識は、読み書き算数。
これに少しの雑学とユーモアがあれば人気者だ。

中学の授業で一番役に立ってるのは技術と家庭科。
今やパソコンスキルは持ってて当たり前だし、一人暮らしをするには炊事洗濯は必須スキル。

数学なんか使い所がなさ過ぎて笑う。

 

学校はもはや学舎ではない

 

今の学校教育は、詰め込み教育だ。
覚えてテストで良い点とったら忘れてしまう。

そんな物が知識になるだろうか?

ニュースでよく見る「若者の応用が利かない」は私から言わせれば当たり前で、応用問題なんか数学か英語のテストでしかお目にかかったことがない。

確かに理科や社会は普遍的なもので、覚えてさえしまえばそれを知識として披露できる。
しかしながら、社会に出た時にただ覚えたものが役に立つ場面はそれ程ない。

鎌倉幕府も1192年じゃ無くなったし。

覚えて終わりの昨今の学校教育では、人材は育たない。

 

 

学校は危険な場所

 

学舎ではなくなったと書いたのには、もう一つ理由がある。

それは学校という場所がもはや安全な場所ではなく、子どもの命すら危機に晒してしまう場所だからだ。

学校の問題提起として挙げられる「」の問題。

何十年前から問題になってると思っているのか分からないが、いじめを苦に自殺することは、もはや珍しいことではない。

安直に死に逃避するその緩いオツムをどうにかしてくれとも思うけれど、子供にとっての世界がそう言う環境である事を教育者も親も理解してやる必要がある。

それとは別に、事件に巻き込まれる危険性が最近は格段に上がっている。

小学◯年生の◯◯ちゃんが〜 と言う事件は、最近特に目立っている。
事故もそうだ。

確かに玄関の外は危険に満ち溢れている。
それに対処するすべを大人は分かっているが子どもは分からない。善悪の判断すらつかないのだ。

海外ではスクールバスでの送迎か親の送り迎え。
日本でそれが出来ないのは共働きでも苦しいお財布事情があるからだろう。

 

 

教師は信用に足る人物か

 

私の友人にも教職を目指している人がいる。
だからこそ言わせてもらいたいのだが、教師は信用に足る人物だろうか?

私の知る教師はいじめをいじめとして認めず、自分の我を押し付けてくる人が大半であった。

教師として良い先生だと思ったのは高校の時の先生たちであり、小中の教師には良い思い出はない。

更に教師と生徒の関係は上下関係と言うよりは支配関係に近いものを感じる。
意見を押さえ込み、これが常識だと押し付けてくるのだ。

所詮教師も人である。
また学校という職場がいかに壮絶な職場であるかも理解できる。
それでも信用に足る人物であると断言することは出来ない。

生徒との意思疎通だって、簡単なことではない。
それでも交流を図り、生徒のメンタル状況を把握する必要性が最近は顕著である。

メンタルカウンセラー等を設置している学校であれば、まだ良いのかもしれない。
それも最近になってやっとのことだ。

海外では神父さんなどの聖職者が常駐しているし、協会の門はいつでも開かれている。
学校にお坊さんを置くのも私はいいと思うのだけれど、そう言う考えは浮かばないのだろうか?

学校という場所

 

学校に行く。
その行くと言う行動にどれだけの価値があるのかと言う話だが、私はまったく価値を感じない。

不登校は悪だと言う考え方が蔓延しているが、行かないのには行かないなりの理由がある。

一番の要因として「魅力」がないのだ。

学校という環境には、友人以外の魅力はないと私は思っている。

そんな唯一の環境で、いじめがあったら…。
行くと言う行動自体がストレスになる事は当然のことだろう。

第1に、毎日登校する事を強要するのは、社会人になった後の会社に出勤する癖付けもあると聞いたことがある。
最近の会社なんかリモートワークでオフィスを構えない会社もあると言うのに、実に前時代的だ。

居残りについても、残業の感覚と結びつけることができる。
学生は勉強するのが仕事と言うのであれば、居残りは残業ではないか?
働き方改革の無能さは、10代の頃から変わっていない。

 

学校は何を学ぶ所?

 

昨今の学校教育についての不満をつらつらと書き連ねたわけだが、結局のところ学校とは学びの場である。

しかしながら、「何を」学ぶ場所なのか私は未だに分からない。

学校は社会の縮図だとよく例えられる。

ならば、

毎日学校に行きなさいは、毎日職場に行きなさい

と言い換えることが出来るだろうし、

勉強が追いつかないなら居残りしなさいは、仕事が追いつかないなら残業しなさい

と言い換えられる。

これは教育ではなく洗脳ではないか?

アジア諸外国がやっている反日教育の要領となにも変わらない。

 

常識を学ぶ場所だと説く者も居るだろう。

常識とはなんだろうか?社会に出れば業種・職種・職場によって常識などは変わってくる。
時代によっても変わってくるものだ。

1192作ろう鎌倉幕府は、以前は常識だったが今は違う。
所詮常識など、個人個人の思想であり、それが大衆化したものだ。

それを棚に上げて常識を学ぶ場所だなどと、へそが茶を沸かす。

 

まとめ

 

学校教育のあり方も、時代に合わせて変化が必要だ。
教師が知って居ることが全てではないし、まして社会というものの概念を押し付ける場所ではない。

学びというものの本質を今一度考えなければならない。
そして、その応用のやり方を教えて行くのが、本来の教育なのではないだろうか。

 

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